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あくびする亀

 海辺の町の話




波を裂く巨大な怪物が海の遠くに佇んでいる。

よく晴れたいい朝だ。重々しい海の色もどこか鮮やかに見えるような、湿気た風をものともせず海猫も飛ぶような、春としては珍しい朝。

私は日課にしているコーヒーを飲みながら窓の外を眺め、その異様なものを見つけた。

遠浅の海とはいえ、人が泳いで行くには到底難しいだろう沖に、ポツリと巨大な岩のようなものが出現していた。大抵の窓がそうであるように、私の家の窓もさして景色の変わらない、多少動く絵画のようなものである。そして私は日がな一日、この窓から外を眺めて絵を描いているから、間違いなくそのようなものは昨日まではなかったと確信をもって言えた。心なしかその辺りには海猫も近付かないようだった。

私は見間違いかと思い目を擦る。しかしやはりその岩のようなものはそこに在る。なんだろうか。もしや、と思い浮かぶことがあった。

私の好奇心が、まるで嵐のようにざわめいている。手のひらほどの小さなスケッチブックと鉛筆を持って外に出れば、いつもよりも海の香りが濃く感じられた。

ところで私の家は高台にある。海に出るには長い一本道の階段を降りていかなければならない。逸る気持ちを抑えながら駆け降りるのは、運動不足気味な私には中々に危険な道のりだった。海に出るまで何度足をもつれさせたことか。それでもなんとか海岸まで無事にたどり着くと、岩のようなそれの正体が怪物であると気づくことが出来た。


怪物、と言っても巨大な亀のようで、大きな瞳を時に瞬かせながら、空母のような広い甲羅を天日干しさせているらしかった。欠伸が聞こえてきそうなほどのんびりした雰囲気が浜辺には満ちていた。私は適当なブロックに腰かけると、彼の様子を描き留めることに集中した。

みゃあみゃあと海猫が上空で旋空する。こんなに大きな怪物がいて餌は見つかるだろうか。思いながらも手は止まらなかった。

噂にはよく聞いていたのだ。この沖では数年に一度、巨大な生き物が春を過ごすのだと。あるいは蜃気楼だとも言われていたが、この海岸は蜃気楼が起こりうる気象条件ではないらしく、特に解明もされないまま写真や映像に残されるようになって全国的に有名になったらしい。私はどうにも、世間のことには疎いのだがこればかりは印象によく残った。なんでもかんでも科学が全て解き明かそうとしてしまうこの世の中で、明かされていないことがある、ということはやはり好奇心がくすぐられる。この怪物の面白いところは見る人によってその姿かたちが変わるようだということだろう。私の目には彼あるいは彼女は亀のように見えるが、ウサギのように見える人もいるという。同時に同じ場所から撮ったという写真が二枚、どこかのギャラリーで展示されていたが、それも片方は馬、もう片方は象のようだった。

とにかく私がここに移り住むことを決めたのも、その噂があってのことだった。海のそばに住むことは確定であったが、どうせなら楽しみがあった方がいい。もしかしたら絵の題材になるかもしれない、と。そして実際、鉛筆を走らせているのだからこの移住は間違いなかったのだろう。

亀は微動だにしない。彼が動いたらきっと大きな波が立つだろう。そうなったら私は家に逃げ込めるだろうか。彼の食事はなんなのだろう。生物である、と一応はいわれている以上なんらかの活動はするのだろうが、忽然と現れたので本当に動くのかも私には確証が持てない。もしもまばたきのうちに跡形もなく消えたなら、それはそれで面白いのだが。

スケッチブックが黒く染まっていく。ふ、と呼吸をするといつの間にか日が随分と落ちていた。ここから家までの道は街灯もまばらだ。名残惜しいながらもスケッチブックを閉じ、亀に会釈した。明日もいてくれるだろうか、と仄かな期待を寄せて。

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